起源・迷信

Origem e Superstições


カポエイラの起源について、アフリカあるいはブラジル、格闘技あるいはダンス、農村あるいは都市部などの諸説が飛び交い、そのルーツは謎に包まれて多くの迷信が存在します。カポエイラは黒人奴隷の抵抗運動の象徴とされていますが、それは肉体的に身を守って自由を手に入れたからではなく、むしろアイデンティティを守る手段として、精神的な開放を目的とする意味合が大きかったと思われます。

アフリカ VS ブラジル  África X Brasil

大西洋奴隷貿易により、16世紀から19世紀前半にかけてアフリカから約400万人が奴隷としてブラジルへ連れ去られ、その中で大半を占めたのはアンゴラ地域のバントゥー系民族でした。1960年代にアンゴラ在住のポルトガル人画家ネヴェス・イ・ソウザ(Albano Neves e Souza, 1921-1995)がブラジルを訪問し、カポエイラのルーツは南アンゴラ地方の《ゼブラダンス》こと【N'golo】(ンゴロ)であると提唱して以来、それまで誰も聞いたことなかった話であったにもかかわらず、長い間カポエイラ界で通説とされてきました。[1]

Albano Neves e Souza, N’golo*, 1965.

しかし、ンゴロの現地調査を実施した近年の研究では、カポエイラの基本ステップのジンガ(ginga)や頭突き(cabeçada)、地面を這うような低い姿勢などの動きが確認されず、カポエイラとの共通点は限定的で直接ルーツとして接結び付けることは難しいと結論付けられました。この結果は、アフリカ諸国の異なる土着文化がブラジルで融和してカポエイラが誕生した可能性が高いと示唆します。[2]

*ンゴロ(N'golo)ではなく、エンゴロ(Engolo)が正しい表記とされる。

格闘技 VS ダンス Luta X Dança

カポエイラと音楽の関係について、格闘技であることを隠し、ダンスに見せかけるために音楽が取り入れられたのか、最初から音楽と共に行われていたのか、はっきり分かっていません。カポエイラを代表する楽弓【berimbau】(ビリンバウ)についても、いつからカポエイラに取り入れられたのか、まだ大きな謎とされています。

Jean-Baptiste Debret, O Velho Orfeu Africano. Oricongo, 1826.[3]

フランス人風俗画家デブレ(Jean-Baptiste Debret, 1768-1848)の1826年の作品『O Velho Orfeu Africano. Oricongo』(仮訳:年老いた黒人の語り部。オリコンゴ)では、《オリコンゴ》(oricongo)すなわち《ビリンバウ》を演奏して、他の奴隷の注目を集める年老いた黒人が画かれています。ビリンバウは古くから口琴「berimbau de boca」(ビリンバウ・ジ・ボッカ)を指す楽器名でしたが、19世から瓢箪を共鳴器として腹部の前で演奏する楽弓「berimbau de barriga」(ビリンバウ・ジ・バヒーガ)も単にビリンバウと呼ばれるようになりました。

*ビリンバウの同義語:arco musical, aricongo/aricungo, berimbau de arco, berimbau de barriga, bucumbumba, gobo, gunga, macungo, marimba, marimbau, matungo/mutungo, oricongo/oricungo/orucungo, ricungo/rucungo, uricongo/urucango/urucongo/urucungo, etc.

アフリカの武術を研究テーマとした書籍『Fighting for honor: the history of African martial art traditions in the Atlantic world』(Desch-Obi, 2008)によると、音楽と踊りの要素をアフ武術から切り離すことができず、参加者が輪になって歌うコール&レスポンスは、さまざまなアフロアメリカ文化表現の儀礼形式と共通しています。[4] 1936年マルティニークで撮影されたアギャ(Ag'ya)*の記録映像[5] では、1962年に録音された音源[6] がミックスされていますが、カポエイラと同じように音楽や踊りが一体となっている様子が見れます。映像の中盤から太鼓の姿もあり、ブラジル北東部の「Tambor de Crioula do Maranhão」で使われる太鼓に似ていることも気になります。

*別名:Danmye, Ladja.

農村 VS 都市部 Rural X Urbana

カポエイラの発祥地は、砂糖きびプランテーションなどの農村地帯だったのが定説とされていますが、農村発祥説とは裏腹に奴隷船の入港先だったリオデジャネイロ市・レシフェ市・サルヴァドール市などの港町でカポエイラが盛んに行われていた記録の方が多く残されています。

Henry Chamberlain. Market Stall and Market Women. Rio de Janeiro, 1819-1820.[7]

1820年頃に画家としても活動していたイギリス軍王立砲兵連隊のチェンバレン中尉(Henry Chamberlain, 1796-1843)がリオデジャネイロ市のラパ広場(Praça da Lapa)を題材にした水彩画『Market Stall and Market Women』(仮訳:市場の青物屋と売子)では、中央にカポエイラの語源の候補とされる鳥籠と、左から2番目に作者が「madimba lungungo」の名で紹介した楽弓(ビリンバウ)を奏でる男性も描写されています。[8] このような街角で、奴隷たちが気晴らしや客寄せ、身を守るため、またはアイデンティティを忘れないためにカポエイラが行われていたかもしれません。

最初の記録 Primeiros registros

カポエイラが確実にダンス・格闘技として初めて描写されたのは、民俗学を得意としたドイツ人画家ルゲンダス(Johann Moritz Rugendas, 1802-1858)が1835年に描いた次の2枚の版画とされています。

Joann Moritz Rugendas, San-Salvador, ca.1835.

サルヴァドール市を背景にした『San-Salvador』(サン・サルヴァドール)では楽器が描かれていませんが、躍動感あふれる人物たちの構図は音楽の存在を感じさせます。このような開けた場所も《カポエイラ》と呼ばれていたようです。

Joann Moritz Rugendas, Jogar Capoëra ou danse de la guerre, ca.1835.

太鼓と共に行われるカポエイラを描いた『Jogar Capoëra ou danse de la guerre』(仮訳:カポエラのゲームまたは戦の舞)はダンスとしての特徴を捉えていますが、握り拳と険しいまなざしは真剣勝負を物語ります。先ほどの絵と違って、カポエイラは街中で堂々と行われています。また、現在のカポエイラで使われるアタバキ(atabaque)と呼ばれる樽型の太鼓と違って、胴体に座って演奏するスタイルの太鼓も描かれていますブラジルの無形文化財「Tambor de Crioula do Maranhão」で使われる木をくりぬいたシンプルな構造の太鼓に非常に似ています。

ルゲンダスはカポエイラについて次の記述も残しました

黒人たちは他にもカポエイラと呼ばれる好戦的で乱暴な娯楽を行っている。二人がぶつかり合い、相手を倒すため、その胸元に頭突きを当てようとする。攻撃は横へのジャンプや巧みな動きで避けられる。しかし、山羊のように互いに突進し、時には頭と頭が激しくぶつかり合う。遊びは喧嘩へと発展することも珍しくなく、ナイフが使われると遊びが血みどろになる。」[8]

迷信 Superstições

500年の歴史 500 anos de história

カポエイラの起源は、ポルトガル人がブラジルに到着した1500年や、奴隷貿易が始まった16世紀半ばまで遡って、カポエイラは500年の歴史があるとよくいわれますが、カポエイラの初期の記録は上記で紹介した19世紀のものになります。

キロンボ・ドス・パウマレス Quilombo dos Palmares

17世紀のバヒーガ山岳地帯(アラゴアス州)で繁栄したブラジル最大の逃亡奴隷集落キロンボ・ドス・パウマレス(Quilombo dos Palmares)がカポエイラの発祥地で、最後のリーダーのズンビ(Zumbi)も偉大なカポエイリスタ(カポエイラ使い)だったと大変興味をそそられる話をよく耳にしますが、残念ながらそのような歴史的痕跡は未だ確認されていません。

失われた歴史 História perdida

1890年にブラジル政府が黒人奴隷に関する全ての書類を焼却したことにより、カポエイラのルーツなどに関する資料が失われた話も聞きます。書類が燃やされたことは事実ですが、失われたのは当時の財務省の記録で、1888年の奴隷制廃止によって奴隷主が伴った損失による訴訟を免れることが主な目的とされ、その出来事によって昔のカポエイラの情報が無くなったと説明するのはナンセンスです。

手械&足技 Algemas e chutes

足技が多用されるのは奴隷が手械をはめられて腕の自由が奪われたから、あるいは床に手を着く低い姿勢は奴隷小屋(senzala)の天井が低かったからだと説明されることがあります。このような構図はとても分かりやすいのですが、信ぴょう性が薄いと言わざるを得ないのです。

脚注Notas

  1. Assunção, Matthias Röhrig. Capoeira: a history of an Afro-Brazilian martial art. Oxfordshire: Routledge, 2005, Ch.2: Capoeira in the context of the Black Atlantic, pp.32-69.

  2. Assunção, Matthias Röhrig. (2020). Engolo e capoeira. Jogos de combate étnicos e diaspóricos no Atlântico Sul. Tempo, 26(3), 522-556. Epub November 16, 2020. https://doi.org/10.1590/tem-1980-542x2020v260302

  3. O Velho Orfeu Africano. Oricongo. In: ENCICLOPÉDIA Itaú Cultural de Arte e Cultura Brasileiras. São Paulo: Itaú Cultural, 2021. Disponível em: http://enciclopedia.itaucultural.org.br/obra61280/o-velho-orfeu-africano-oricongo

  4. Desch-Obi, M. Thomas J. Fighting for honor: the history of African martial art traditions in the Atlantic world. Columbia: University of South Carolina Press, 2008, p.36.

  5. Library of Congress, Katherine Dunham Collection, Ag'ya, Martinique Fieldwork, 1936.

  6. Caribbean Voyage: Martinique, "Cane Fields And City Streets" - The Alan Lomax Collection. Léonar-O Plan-O & Etienne

  7. BNDigital - Biblioteca Nacional. Chamberlain, Henry. Views and costumes of the city and neighborhood of Rio de Janeiro, Brazil, from drawings taken by Lieutenant Chamberlain, Royal Artillery, during the years 1819 and 1820, with descriptive explanations. London, 1822. "A Market Stall"

  8. Rugendas, Johann Moritz. Voyage pittoresque dans le Brésil. Paris: Engelman, 1835. Moeurs et usages des nègres, p.26.